デパスおよび村田新八
... 赤瀬川隼の「朝焼けの賦 小説・村田新八」読了。西南戦争で二番大隊隊長を務め、田原坂で息子を失い、城山で西郷とともに死んだ村田新八は、おそらく薩軍でほぼ唯一の「近代人」だったと思う。以前から、この人のことが気になっていた。 ...

村田新八について考える②。
... 本当は村田新八について考える気などさらさらなかったんですが、ちょっと考えてみます。全然詳しくないんですけど。これからの自分の為にも。 まず、村田新八が生まれ育った、薩摩の独特の青少年育成法である「郷中(ごじゅう)」について触れるべきかと。 ...

村田新八誕生の碑
村田新八は明治維新の立役者のひとりです。

村田銃の村田は,この男^^村田新八^^。は,結構,ハイセ ...
... 写真は,ここから↓ http://www.keiten-aijin.com/muratashinpachi.htm 村田新八のお墓。西郷隆盛の墓のならび。 それにしても,西郷さんは,みんなに囲まれて嬉しそう^^。 ... 村田新八の知名度は低い。詳細↓ 上記より↓ 勝海舟は 「彼は大久保利通に亜ぐ ...

西南戦争~熊本城・攻防戦
... 一方、同時に熊本城の西側へ攻め寄せていた搦手 (からめて) からの攻撃隊 篠原国幹 (くにもと) 隊と 村田新八隊 も苦戦を強いられてしまいました。 結局、この日の薩軍は、 城郭の一角すら抜く事ができずに戦闘を終える 事に。 ...

村田 新八(むらた しんぱち、天保7年11月3日 (旧暦) 11月3日(1836年12月10日) - 明治10年(1877年)9月24日)は、江戸時代末期(幕末)の薩摩藩士、明治時代の政治家である。
天保7年(1836)11月3日、薩摩国鹿児島城下上加治屋町高見馬場で高橋八郎の第三子として生まれ、幼にして村田十蔵(経典)の養子となった。初めの名は経麿、のち経満(つねみつ)に改む。通称を新八という。三男一女あり、長男の岩熊と次男の二蔵はともに西南戦争に従軍して戦死した。
村田は年少のときから西郷隆盛に兄事し、尊王の志を抱いた。文久2年(1862)、3月10日、熊本藩士宮部鼎蔵らが入薩しようとしたとき、有馬新七らと市来駅で宮部らと会して時事を談じ、入薩を断念させた。この後に島津久光進発に先立って上京した西郷・村田・森山新蔵は諸藩の情勢を探っていたが、真木和泉・有馬新七らの京都挙兵(寺田屋騒動)を煽動したと島津久光から疑われ、呼び戻されて西郷は徳之島(再命で沖永良部島へ変更)へ、村田は喜界島(薩摩硫黄島 (鹿児島県) 硫黄島(鬼界ヶ島)ではない)へ遠島された。このときの喜界島での生活を記した「宇留満乃日記」は今も残っている。元治元年(1864)、赦免された西郷は途中、喜界島へ寄って村田を鹿児島へ連れ帰った。
村田新八の詳細